枕草子 ~抜粋~
清少納言

(第一段)
春は曙。やうやう白くなりゆく、山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる。
夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。
冬は早朝。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃・火桶の火も白き灰がちになりて、わろし。
(第二段)
(ころは正月) 七日、雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの目近からぬ所にもて騒ぎたるこそ、をかしけれ。白馬見にとて、里人は、車清げにしたてて見に行く。中の御門の閾引き過ぐるほど、頭、一所にゆるぎあひ、刺櫛も落ち、用意せねば折れなどして笑ふも、またをかし。左衛門の陣のもとに、殿上人などあまた立ちて、舎人の弓ども取りて、馬ども驚かし笑ふを、はつかに見入れたれば、立蔀などの見ゆるに、主殿司、女官などの行き違ひたるこそ、をかしけれ。いかばかりなる人、九重を馴らすらむ、など思ひやらるるに、内裏にも見るは、いと狭きほどにて、舎人の顔のきぬにあらはれ、まことに黒きに、白きものいきつかぬ所は、雪のむらむら消え残りたる心地していと見苦しく、馬のあがり騒ぐなどもいと恐ろしう見ゆれば、引き入られてよくも見えず。
十五日、節供参り据ゑ、粥の木ひき隠して、家の御達、女房などのうかがふを、打たれじと用意して、常に後を心遣ひしたる気色も、いとをかしきに、いかにしたるにかあらむ、打ちあてたるは、いみじう興ありてうち笑ひたるは、いとはえばえし。ねたしと思ひたるもことわりなり。新しう通ふ婿の君などの、 内裏へ参るほどをも心もとなう、所につけて我はと思ひたる女房の、のぞき、気色ばみ、奧の方にたたずまふを、前に居たる人は心得て笑ふを、「あなかま」と、まねき制すれども、女はた、知らず顏にて、おほどかにて居給へり。「ここなる物、取り侍らむ」など言ひ寄りて、走り打ちて逃ぐれば、ある限り、笑ふ。男君も、憎からずうち笑みたるに、ことに驚かず、顔すこし赤みて居たるこそ、をかしけれ。また、かたみに打ちて、男をさへぞ打つめる。いかなる心にかあらむ、泣き腹立ちつつ、人をのろひ、まがまがしく言ふもあるこそ、をかしけれ。内裏わたりなどのやむごとなきも、今日は皆乱れて、かしこまりなし。
(第五段)
(大進生昌が家に) 御前に参りて、ありつるやう啓すれば、「ここにても、人は見るまじうやは。などかは、さしもうちとけつる」と、笑はせ給ふ。「されどそれは、目馴れにて侍れば、よくしたてて侍らむにしもこそ、驚く人も侍らめ。さても、かばかりの家に車入らぬ門やはある。見えば笑はむ』など言ふほどにしも、「これ、参らせ給へ」とて、御硯などさし入る。「いで、いとわろくこそおはしけれ。など、その門はた、狭くは造りて住み給ひける」と言へば、笑ひて、「家のほど、身のほどにあはせて侍るなり』と答ふ。「されど、門の限りを高う造る人もありけるは」と言へば、「あな恐ろし」と驚きて、「それは于定国がことにこそ侍るなれ。古き進士などに侍らずは、承り知るべきにも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、かうだにわきまへ知られ侍る」と言ふ。「その御道も、かしこからざめり。筵道敷きたれど、皆おちいり騒ぎつるは」と言へば、「雨の降り侍りつれば、さも侍りつらむ。よしよし、また仰せられかくることもぞ侍る。まかり立ちなむ」とて、去ぬ。
(第二十段)
(清涼殿の丑寅の隅の) 高欄のもとに、青き瓶の大きなるを据ゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄の外まで咲きこぼれたる昼つ方、大納言殿、桜の直衣のすこしなよらかなるに、濃き紫の固紋の指貫、白き御衣ども、上には濃き綾のいとあざやかなるを出だして参り給へるに、上の、こなたにおはしませば、戸口の前なる細き板敷きに居給ひて、ものなど申し給ふ。
御簾の内に、女房、桜の唐衣どもくつろかに脱ぎ垂れて、藤、山吹など色々好ましうて、あまた、小半蔀の御簾より押し出でたるほど、昼の御座の方には、御膳参る足音高し。警蹕など、「をし」と言ふ声聞こゆるも、うらうらとのどかなる日の気色など、いみじうをかしきに、果ての御盤取りたる蔵人参りて、御膳奏すれば、中の戸より渡らせ給ふ。御供に、廂より大納言殿御送りに参り給ひて、ありつる花のもとに帰り居給へり。
「村上の御時に、宣耀殿の女御と聞こえけるは、小一条の左の大臣殿の御女におはしけると、誰かは知り奉らざらむ。まだ姫君と聞こえける時、父大臣の教へきこえ給ひけることは、『一には、御手を習ひ給へ。次には、琴の御琴を、人より異に弾きまさらむとおぼせ。さては、古今の歌二十巻を、皆うかべさせ給ふを、御学問にはせさせ給へ』となむ、聞こえ給ひける、と、きこしめしおきて、御物忌みなりける日、古今を持て渡らせ給ひて、御几帳をひき隔てさせ給ひければ、女御、例ならずあやしと、おぼしけるに、草子を広げさせ給ひて、『その月、何のをり、その人の詠みたる歌は、いかに』と、問ひ聞こえさせ給ふを、かうなりけり、と心得給ふも、をかしきものの、僻覚えをもし、忘れたるところもあらば、いみじかるべきこと、と、わりなうおぼし乱れぬべし。その方におぼめかしからぬ人、二、三人ばかり召し出でて、碁石して数置かせ給ふとて、強ひ聞こえさせ給ひけむほどなど、いかにめでたうをかしかりけむ。御前に候ひけむ人さへこそ、うらやましけれ。せめて申させ給へば、さかしう、やがて末まではあらねども、すべてつゆ違ふことなかりけり。いかでなほ、すこしひがこと見付けてをやまむ、と、ねたきまでにおぼしめしけるに、十巻にもなりぬ。『さらに不用なりけり』とて、御草子に夾算さして、大殿籠りぬるも、まためでたしかし。……」
(第二一段)
生ひ先なく、まめやかに、似非幸ひなど見て居たらむ人は、いぶせく、侮らはしく思ひやられて、なほ、さりぬべからむ人の女などは、さしまじらはせ、世のありさまも見せ習はさまほしう、典侍などにてしばしもあらせばや、とこそ、おぼゆれ。
宮仕へする人をば、あはあはしう、わろきことに言ひ思ひたる男などこそ、いと憎けれ。げに、そも、またさることぞかし。かけまくもかしこき御前をはじめ奉りて、上達部、殿上人、五位、四位はさらにも言はず、見ぬ人は少なくこそあらめ。女房の従者、その里より来る者、長女、御厠人の従者、たびしかはらといふまで、いつかはそれを恥ぢ隠れたりし。殿ばらなどは、いとさしもやあらざらむ。それも、ある限りは、しか、さぞあらむ。
上など言ひて、かしづき据ゑたらむに、心憎からずおぼえむ、ことわりなれど、また内裏の典侍などいひて、をりをり内裏へ参り、祭りの使ひなどに出でたるも、面立たしからずやはある。さて、こもりゐぬる人は、まいてめでたし。受領の、五節出だすをりなど、いとひなび、言ひ知らぬことなど、人に問ひ聞きなどは、せじかし。心憎きものなり。
(第二二段)
すさまじきもの 昼吠ゆる犬。春の網代。三、四月の紅梅の衣。牛死にたる牛飼ひ。乳児亡くなりたる産屋。火おこさぬ炭櫃、地火炉。博士のうち続き女子生ませたる。方違へに行きたるに、饗応せぬ所。まいて節分などはいとすさまじ。
人の国よりおこせたる文の、物なき。京のをも、さこそ思ふらめ。されどそれは、ゆかしきことどもをも書き集め、世にあることなどをも聞けば、いとよし。人のもとに、わざと清げに書きてやりつる文の返事、今は持て来ぬらむかし、あやしう遅き、と、待つほどに、ありつる文、立て文をも結びたるをも、いと汚げに取りなし、ふくだめて、上に引きたりつる墨など消えて、「おはしまさざりけり」もしは「御物忌みとて取り入れず」と言ひて持て帰りたる、いとわびしく、すさまじ。
除目に司得ぬ人の家。今年は必ず、と聞きて、はやうありし者どものほかほかなりつる、田舎だちたる所に住む者どもなど、皆集り来て、出で入る車の轅も 隙なく見え、もの詣でする供に、我も我もと参り仕うまつり、物食ひ酒飲み、ののしりあへるに、果つる暁まで門たたく音もせず、「あやしう」など、耳立てて聞けば、前駆追ふ声々などして上達部など皆出で給ひぬ。もの聞きに宵より寒がりわななきをりける下衆男、いともの憂げに歩み来るを、居る者どもは、え問ひにだに問はず、外より来たる者などぞ、「殿は、何にかならせ給ひたる」など問ふに、答へには、「某の前司にこそは」などぞ、必ず答ふる。まことに頼みける者は、いと嘆かしと思へり。つとめてになりて、隙なく居りつる者ども、一人、二人すべり出でて去ぬ。古き者どもの、さもえ行き離るまじきは、来年の国々、手を折りてうち数へなどして、ゆるぎ歩きたるも、いとほしう、すさまじげなり。
(第二五段)
(にくきもの) なでふことなき人の、笑がちにて、ものいたう言ひたる。火桶の火、炭櫃などに、手の裏うち返しうち返しおしのべなどして、あぶりをる者。いつか、若やかなる人など、さはしたりし。老いばみたる者こそ、火桶の端に足をさへもたげて、もの言ふままに押しすりなどはすらめ。さやうの者は、人のもとに来て、居むとする所を、まづ扇してこなたかなたあふぎ散らして、塵掃き捨て、居も定まらずひろめきて、狩衣の前巻き入れても居るべし。かかることは、言ふかひなき者の際にやと思へど、すこしよろしき者の、式部の大夫などいひしが、せしなり。
また、酒飲みてあめき、口を探り、鬚ある者はそれをなで、盃、異人に取らするほどの気色、いみじうにくしと見ゆ。「また飲め」と言ふなるべし、身震ひをし、頭振り、口わきをさへ引き垂れて、童の「こう殿に参りて」など謠ふやうにする。それはしも、まことによき人のし給ひしを見しかば、心づきなしと思ふなり。
もの羨みし、身の上嘆き、人の上言ひ、露塵のこともゆかしがり、聞かまほしうして、言ひ知らせぬをば、怨じそしり、また僅かに聞き得たることをば、わがもとより知りたることのやうに、異人にも語り調ぶるも、いとにくし。
(第二六段)
心ときめきするもの 雀の子飼い。乳児遊ばする所の前渡る。よき薫き物たきて、一人臥したる。唐鏡のすこし暗き見たる。よき男の、車停めて、案内し問はせたる。頭洗ひ、化粧じて、香ばしう染みたる衣など着たる。ことに見る人なき所にても、心のうちは、なほいとをかし。待つ人などのある夜、雨の音、風の吹き揺るがすも、ふと驚かる。
(第二七段)
過ぎにし方恋しきもの 枯れたる葵。雛遊びの調度。二藍、葡萄染などの裂栲の、押し圧されて、草子の中などにありける、見つけたる。また、折からあはれなりし人の文、雨など降りつれづれなる日、探し出でたる。去年のかはほり。
(第三三段)
(七月ばかり、いみじう暑ければ) いとつややかなる板の端近う、鮮やかなる畳一枚うち敷きて、三尺の几帳、奥の方に押しやりたるぞ、あぢきなき。端にこそ立つべけれ。奥の後めたからむよ。人は出でにけるなるべし、薄色の、裏いと濃くて、表はすこしかへりたるならずは、濃き綾のつややかなるが、いと萎えぬを、頭ごめに引き着てぞ寝たる。香染めの単衣、もしは黄生絹の単衣、紅の一重袴の腰のいと長やかに衣の下より引かれたるも、まだ解けながらなめり。そばの方に髮のうち畳なはりてゆるらかなるほど、長さ推し測られたるに、またいづこよりにかあらむ、朝ぼらけのいみじう霧り立ちたるに、二藍の指貫に、あるかなきかの色したる香染めの狩衣、白き生絹に紅の透すにこそはあらめ、つややかなる、霧にいたうしめりたるを脱ぎたれて、鬢のすこしふくだみたれば、烏帽子の押し入れたる気色もしどけなく見ゆ。朝顔の露落ちぬさきに文書かむと、道のほども心もとなく、「麻生の下草」など、口ずさみつつ、我が方に行くに、格子の上がりたれば、御簾のそばをいささか引き上げて見るに、起きて去ぬらむ人もをかしう、露もあはれなるにや、しばし見立てれば、枕上の方に、朴に紫の紙張りたる扇、広ごりながらあり。
(第三四段)
木の花は濃きも薄きも、紅梅。桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし。
四月の晦日、五月の朔日の頃ほひ、橘の葉の濃く青きに、花のいと白う咲きたるが、雨うち降りたる早朝などは、世になう心あるさまに、をかし。花の中より黄金の玉かと見えて、いみじう鮮やかに見えたるなど、朝露に濡れたる朝ぼらけの桜に劣らず。郭公のよすがとさへ思へばにや、なほ、さらに言ふべうもあらず。
梨の花、よにすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文付けなどだにせず、愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを、唐土には限りなきものにて、詩にも作る、なほさりとも、やうあらむと、せめて見れば、花びらの端にをかしき匂ひこそ、心もとなうつきためれ。楊貴妃の、帝の御使ひに会ひて泣きける顔に似せて、「梨花一枝、春、雨を帯びたり」など言ひたるは、おぼろけならじと思ふに、なほいみじうめでたきことは、類あらじとおぼえたり。
(第三六段)
(節は) 空の気色、曇り渡りたるに、中宮などには、縫殿より、御薬玉とて色々の糸を組み下げて参らせたれば、御帳立てたる母屋の柱に左右に付けたり。九月九日の菊を、あやしき生絹の衣に包みて参らせたるを、同じ柱に結ひ付けて、月ごろある、薬玉に取り替へてぞ捨つめる。また薬玉は菊の折まであるべきにやあらむ。されどそれは、皆、糸を引き取りて、もの結ひなどして、しばしもなし。

御節供参り、若き人々、菖蒲の刺櫛さし、物忌み付けなどして、さまざま、唐衣、汗衫などに、をかしき折枝ども、長き根にむら濃の組して結び付けたるなど、珍しう言ふべきことならねど、いとをかし。さて、春ごとに咲くとて、桜をよろしう思ふ人やはある。
土歩く童などの、ほどほどにつけてはいみじきわざしたりと思ひて、常に袂まぼり、人のに比べなど、えも言はずと思ひたるなどを、そばへたる小舎人童などに引きはられて泣くも、をかし。
紫の紙に楝の花、青き紙に菖蒲の葉細く巻きて結ひ、また、白き紙を根して引き結ひたるも、をかし。いと長き根を文の中に入れなどしたるを見る心地ども、いと艶なり。返事書かむと言ひあはせ、語らふどちは、見せ交はしなどするも、いとをかし。人の女、やむごとなき所々に、御文など聞こえ給ふ人も、今日は心異にぞなまめかしき。夕暮れのほどに、郭公の名のりして渡るも、すべていみじき。
(第三八段)
鳥は、異所のものなれど、鸚鵡、いとあはれなり。人の言ふらむことをまねぶらむよ。郭公。水鶏。鴫。都鳥。鶸。鶲。
山鳥、友を恋ひて、鏡を見すれば慰むらむ、心若う、いとあはれなり。谷隔てたるほどなど、心苦し。
鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声の雲居まで聞こゆる、いとめでたし。頭赤き雀。斑鳩の雄鳥。巧み鳥。
鷺は、いと見目も見苦し。眼居なども、うたてよろづになつかしからねど、「ゆるぎの森にひとりは寝じ」と争ふらむ、をかし。水鳥、鴛鴦いとあはれなり。かたみにゐかはりて、羽の上の霜払ふらむほどなど。千鳥、いとをかし。
(第三九段)
あてなるもの 薄色に白襲の汗衫。雁の子。削り氷に甘葛入れて、新しき鋺に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじううつくしき児の、いちごなど食ひたる。
(第四十段)
虫は鈴虫。茅蜩。蝶。松虫。蟋蟀。機織り。われから。ひをむし。蛍。
蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれも恐しき心あらむとて、親のあやしき衣引き着せて、「今、秋風吹かむ折ぞ、来むとする。待てよ」と言ひ置きて逃げて去にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」と、はかなげに鳴く、いみじうあはれなり。
額づき虫、またあはれなり。さる心地に道心おこして、つき歩くらむよ。思ひかけず、暗き所などにほとめき歩きたるこそ、をかしけれ。
蝿こそ、憎きもののうちに入れつべく、愛敬なきものはあれ。人々しう、敵などにすべき物の大きさにはあらねど、秋など、ただよろづの物に居、顔などに濡れ足して居るなどよ。人の名につきたる、いとうとまし。
夏虫、いとをかしう、らうたげなり。火近う取り寄せて物語など見るに草子の上などに飛びありく、いとをかし。
蟻は、いと憎けれど、軽びいみじうて、水の上などをただ歩みに歩みありくこそ、をかしけれ。
(第四一段)
七月ばかりに、風いたう吹きて、雨など騒がしき日、おほかたいと涼しければ、扇もうち忘れたるに、汗の香すこしかかへたる綿衣の薄きをいとよく引き着て、昼寝したるこそ、をかしけれ。
(第四二段)
にげなきもの 下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるも、くちをし。月の明かきに、屋形なき車の会ひたる。また、さる車に、あめ牛かけたる。また、老いたる女の、腹高くて歩く。若き男持ちたるだに見苦しきに、異人のもとへ行きたるとて、腹立つよ。
老いたる男の、寝まどひたる。また、さやうに鬚がちなる者の、椎齧みたる。歯もなき女の、梅食ひて酸がりたる。下衆の、紅の袴着たる。このころは、それのみぞあめる。
(第四六段)
(職の御曹司の西面の) いみじう見えきこえて、をかしき筋など立てたることはなう、ただありなるやうなるを、皆人さのみ知りたるに、なほ奥深き心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず」など、御前にも啓し、また、さ知ろしめしたるを、常に、「『女は己を説ぶ者のために顔づくりす。士は己を知る者のために死ぬ』となむ言ひたる」と、言ひあはせ給ひつつ、よう知り給へり。「遠江の浜柳」と言ひかはしてあるに、若き人々は、ただ言ひに見苦しきことどもなどつくろはず言ふに、「この君こそ、うたて見えにくけれ。異人のやうに歌うたひ興じなどもせず、けすさまじ」など、そしる。
さらにこれかれにもの言ひなどもせず、「まろは、目は縦さまに付き、眉は額さまに生ひあがり、鼻は横さまなりとも、ただ口つき愛敬づき、頤の下、頸清げに、声にくからざらむ人のみなむ、思はしかるべき。とは言ひながら、なほ、顔いとにくげならむ人は、心憂し」とのみ、宣へば、まして、頤細う、愛敬おくれたる人などは、あいなく敵にして、御前にさへぞ、悪しざまに啓する。
(第五九段)
河は、飛鳥川、淵瀬も定めなく、いかならむと、あはれなり。大井河。音無川。七瀬川。
耳敏川、またもなにごとをさくじり聞きけむと、をかし。玉星川。細谷川。五貫川、沢田川などは、催馬楽などの思はするなるべし。名取川、いかなる名を取りたるならむと、聞かまほし。吉野河。天の河原、「棚機つ女に宿借らむ」と、業平が詠みたるも、をかし。
(第六十段)
(暁に帰らむ人は) 人はなほ、暁のありさまこそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶしぶに、起きがたげなるを、強ひてそそのかし、「明け過ぎぬ。あな見苦し」など言はれて、うち嘆く気色も、げに飽かずもの憂くもあらむかし、と見ゆ。指貫なども、居ながら着もやらず、まづさし寄りて、夜言ひつることの名残、女の耳に言ひ入れて、なにわざすともなきやうなれど、帯など結ふやうなり。格子押し上げ、妻戸ある所は、やがてもろともに率て行きて、昼のほどのおぼつかなからむことなども言ひ出でにすべり出でなむは、見送られて、名残もをかしかりなむ。思ひ出で所ありて、いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫の腰こそこそとかはは結ひ、直衣、袍、狩衣も、袖かいまくりて、よろづさし入れ、帯いとしたたかに結ひ果てて、つい居て、鳥帽子の緒、きと強げに結ひ入れて、かいすふる音して、扇、畳紙など、昨夜枕上に置きしかど、おのづから引かれ散りにけるを求むるに、暗ければ、いかでかは見えむ、「いづら、いづら」と叩きわたし、見出でて、扇ふたふたと使ひ、懐紙さし入れて、「まかりなむ」とばかりこそ言ふらめ。
(第六四段)
(草の花は) 萩、いと色深う、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れてなよなよと広ごり伏したる。さ牡鹿のわきて立ち馴らすらむも、心異なり。八重山吹。
夕顔は、花の形も朝顔に似て、言ひ続けたるにいとをかしかりぬべき花の姿に、実のありさまこそ、いとくちをしけれ。などて、さはた生ひ出でけむ。ぬかづきといふもののやうにだにあれかし。されどなほ夕顔といふ名ばかりは、をかし。しもつけの花。蘆の花。
これに薄を入れぬ、いみじうあやしと、人言ふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄こそあれ。穂先の蘇枋にいと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりのものやはある。秋の果てぞ、いと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花の、かたもなく散りたるに、冬の末まで頭の白くおほどれたるも知らず、昔思ひ出で顔に風になびきてかひろぎ立てる、人にこそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしもこそ、あはれと思ふべけれ。
(第七二段)
ありがたきもの 舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君。毛のよく抜くる銀の毛抜き。主そしらぬ従者。
つゆの癖なき。容貌・心・ありさますぐれ、世に経るほど、いささかの疵なき。同じ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、つひに見へぬこそ、難けれ。
物語、集など書き写すに、本に墨つけぬ。よき草子などは、いみじう心して書けど、必ずこそ汚なげになるめれ。
男・女をば言はじ、女どちも、契り深くて語らふ人の、末まで仲よきこと、難し。
(第七三段)
内裏の局は、細殿いみじうをかし。上の蔀上げたれば、風いみじう吹き入れて、夏もいみじう涼し。冬は、雪・霰などの、風にたぐひて降り入りたるも、いとをかし。狭くて、童などののぼりぬるぞ、あしけれども、屏風のうちに隠し据ゑたれば、異所の局のやうに、声高くゑ笑ひなどもせで、いとよし。
昼なども、たゆまず心遣ひせらる。夜は、まいて、うちとくべきやうもなきが、いとをかしきなり。沓の音、夜一夜聞こゆるが、とどまりて、ただ指一つして叩くが、その人ななりと、ふと聞こゆるこそをかしけれ。いと久しう叩くに、音もせねば、寝入りたりとや思ふらむと、ねたくて、すこしうちみじろく衣の気配、さななりと思ふらむかし。冬は、火桶にやをら立つる箸の音も、忍びたりと聞こゆるを、いとど叩きはらへば、声にても言ふに、かげながらすべり寄りて聞く時もあり。
また、あまたの声して詩誦じ、歌などうたふには、叩かねどまづ開けたれば、此処へとしも思はざりける人も、立ち止まりぬ。居るべきやうもなくて立ち明かすも、なほをかし。
(第七八段)
(頭の中将の、すずろなる虚言を) 「ただここもとに、人伝てならで申すべきことなむ」と言へば、さし出でて問ふに、「これ頭の殿の奉らせ給ふ。御返事、疾く」と言ふ。いみじくにくみ給ふに、いかなる文ならむと思へど、ただ今、急ぎ見るべきにもあらねば、「去ね、今聞こえむ」とて、懷に引き入れて入りぬ。なほ人のもの言ふ、聞きなどする、すなはち立ち帰り来て、「『さらば、そのありつる御文を賜はりて来』となむ、仰せらるる。疾く疾く」と言ふが、あやしう、『いをの物語』なりや、とて、見れば、青き薄樣に、いと清げに書き給へり。心ときめきしつるさまにもあらざりけり。
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蘭省花時錦帳下 |
と書きて、「末はいかに、末はいかに」とあるを、いかにかはすべからむ。御前おはしまさば、御覧ぜさすべきを、これが末を知り顏に、たどたどしき真名に書きたらむもいと見苦しと、思ひまはすほどもなく責めまどはせば、ただその奧に、炭櫃に消え炭のあるして、
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草の庵を誰か尋ねむ |
と書きつけて取らせつれど、また返事も言わず。
(第八十段)
(里にまかでたるに) さて後、来て、「一夜は責めたてられて、すずろなる所々になむ、率て歩き奉りし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、など、ともかくも御返りはなくて、すずろなる布の端をば包みて賜へりしぞ。あやしの包み物や。人のもとにさる物包みて送るやうやはある。取り違へたるか」と言ふ。いささか心も得ざりけると見るがにくければ、ものも言はで、硯にある紙の端に、
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かづきする海女のすみかをそことだにゆめ言ふなとやめをくはせけむ |
と書きてさし出でたれば、「歌詠ませ給へるか、さらに見侍らじ」とて扇ぎ返して逃げて去ぬ。
(第八九段)
無名といふ琵琶の御琴を、上の持て渡らせ給へるに、見などして、かき鳴らしなどすと言へば、弾くにはあらで、緒などを手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとか」と聞こえさするに、「ただいとはかなく、名もなし」と宣はせたるは、なほいとめでたしとこそおぼえしか。
淑景舎など渡り給ひて、御物語のついでに、「まろがもとに、いとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿の得させ給へりし」と宣ふを、僧都の君、「それは隆円に賜へ。おのがもとに、めでたき琴侍り。それに換へさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、異事を宣ふに、答へさせ奉らむとあまたたび聞こえ給ふに、なほものも宣はねば、宮の御前の「いな、換へじ、とおぼしたるものを」と宣はせたる御気色の、いみじうをかしきことぞ限りなき。
この御笛の名を、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただ恨めしうおぼいためる。これは、職の御曹司におはしまいしほどのことなめり。上の御前に、「いなかへじ」といふ御笛の候ふなり。
御前に候ふものは、御琴も御笛も、みな珍しき名つきてぞある。
玄上・牧馬・井手・渭橋・無名など。また和琴なども、朽目・塩窯・二貫などぞ聞こゆる。水竜・小水竜・宇多の法師・釘打・葉二、なにくれなど多く聞きしかど、忘れにけり。「宜陽殿の一の棚に」といふ言くさは、頭の中将こそし給ひしか。
(第九一段)
ねたきもの 人のもとにこれより遣るも、人の返事も、書きて遣りつる後、文字一つ二つ思ひ直したる。
とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに、針を引き抜きつれば、はやく後を結ばざりけり。また、かへさまに縫ひたるも、ねたし。
南の院におはしますころ、「とみの御物なり。誰も誰も、時かはさず、あまたして縫ひて参らせよ」とて、賜はせたるに、南面に集まりて、御衣の片身づつ、誰かとく縫ふと、近くも向かはず縫ふさまも、いともの狂ほし。命婦の乳母、いととく縫ひ果ててうち置きつる、ゆだけのかたの身を縫ひつるが、そむきざまなるを見つけで、綴ぢ目もしあへず、まどひ置きて立ちぬるが、御背合はすれば、はやく違ひたりけり。笑ひののしりて、「早くこれ縫ひ直せ」と言ふを、「誰、あしう縫ひたりと知りてか直さむ、綾などならばこそ、裏を見ざらむ人も、げにと直さめ。無文の御衣なれば、なにをしるしにてか、直す人誰もあらむ。まだ縫ひ給はぬ人に直させよ」とて、聞かねば、「さ言ひてあらむや」とて、源少納言、中納言の君などいふ人たち、もの憂げに取り寄せて縫ひ給ひしを、見やりてゐたりしこそ、をかしかりしか。
(第九二段)
かたはらいたきもの 客人などにあひてもの言ふに、奧の方にうちとけ言など言ふを、えは制せで聞く心地。思ふ人のいたく醉ひて同じことしたる。聞き居たりけるを知らで、人の上言ひたる。それは、なにばかりならねど、使ふ人などだに、いとかたはらいたし。旅立ちたる所にて、下衆どもの戯れ居たる。
にくげなるちごを、おのが心地のかなしきままに、うつくしみかなしがり、これが声のままに、言ひたることなど語りたる。才ある人の前にて、才なき人のものおぼえ顔に人の名など言ひたる。ことによしともおぼえぬ我が歌を人に語りて、人の褒めなどしたる由言ふも、かたはらいたし。
(第九三段)
あさましきもの 刺櫛すりて磨くほどに、物に突き障へて折りたる心地。車のうち返りたる。さるおほのかなる物は、所狭くやあらむと思ひしに、ただ夢の心地して、あさましうあへなし。
人のために恥づかしうあしきことを、慎みもなく、言ひゐたる。かならず来なむと思ふ人を、夜一夜起き明かし待ちて、曉がたに、いささかうち忘れて寝入りにけるに、烏のいと近く、かかと鳴くに、うち見上げたれば、昼になりにける、いみじうあさまし。見すまじき人に、ほかへ持て行く文見せたる。むげに知らず見ぬことを、人のさし向かひて、争はすべくもあらず言ひたる。ものうちこぼしたる心地、いとあさまし。
(第九四段)
くちをしきもの 五節、御仏名に雪降らで、雨のかきくらし降りたる。節会などに、さるべき、御物忌みの当たりたる。いとなみ、いつしかと待つことの、障りあり、にはかに止まりぬる。遊びをもし、見すべきことありて、呼びにやりたる人の来ぬ、いとくちをし。
男も女も法師も、宮仕へ所などより、同じやうなる人もろともに、寺へ詣で、ものへも行くに、好ましうこぼれ出で、用意よくいはばけしからず、あまり見苦しとも見つべくぞあるに、さるべき人の、馬にても車にても行きあひ、見ずなりぬる、いとくちをし。わびては、好き好きし下衆などの、人などに語りつべからむをがな、と思ふも、いとけしからず。
(第九五段)
(五月の御精進のほど) 卯の花のいみじう咲きたるを折りて、車の簾、傍らなどに挿し余りて、おそひ・棟などに、長き枝を葺きたるやうに挿したれば、ただ卯の花の垣根を牛に懸けたるとぞ見ゆる。供なる男どもも、いみじう笑ひつつ、「ここまだし、ここまだし」と挿し合えり。
人も会はなむ、と思ふに、さらにあやしき法師、下衆の言ふかひなきのみ、たまさかに見ゆるに、いとくちをしくて、近く来ぬれど、「いとかくてやまむやは。この車のありさまを人に語らせてこそやまめ」とて、一条殿のほどにとどめて、「侍従殿やおはします、郭公の声聞きて、今なむ帰る」と言はせたる使ひ、「『ただ今参る。しばし。あが君』となむ宣へる。侍ひに真広げておはしつる、急ぎ立ちて、指貫奉りつ」と言ふ。待つべきにもあらず、とて、走らせて、土御門ざまへ遣るに、いつの間にか裝束きつらむ、帯は道のままに結ひて、「しばし、しばし」と追ひ来る供に、侍三、四人ばかり、物もはかで走るめり。「とく遣れ」と、いとど急がして、土御門に行き着きぬるにぞ、あへぎまどひておはして、この車のさまをいみじう笑ひ給ふ。「現の人の乗りたるとなむ、さらに見えぬ。なほ下りて見よ」など笑ひ給へば、供に走りつる人どもも興じ笑ふ。「歌はいかが、それ聞かむ」と宣へば、「今、御前に御覧ぜさせて後こそ」など言ふほどに、雨まことに降りぬ。
二日ばかりありて、その日のことなど言ひ出づるに、宰相の君、「いかにぞ。手づから折りたると言ひし下蕨は」と、宣ふを聞かせ給ひて、「思ひ出づることのさまよ」と笑はせ給ひて、紙の散りたるに、
と書かせ給ひて、「本言へ」と仰せらるるも、いとをかし。
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郭公たづねて聞きし声よりも |
と書きて参らせたれば、「いみじううけばりたりや。かうだに、いかで郭公のことをかけつらむ」と笑はせ給ふも恥づかしながら、「なにか、この歌、すべて詠み侍らじ、となむ思ひ侍るを、ものの折など、人の詠み侍らむにも、『詠め』など仰せられば、え候ふまじき心地なむし侍る。いといかがは、文字の数知らず、春は冬の歌、秋は梅の花の歌などを詠むやうは侍らむ。されど歌詠むと言はれし末々は、すこし人よりまさりて、『その折の歌は、これこそありけれ、さは言へど、それが子なれば』など言はればこそ、甲斐ある心地もし侍らめ。つゆとりわきたる方もなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初に詠み出で侍らむ、亡き人のためにも、いとほしう侍る」と、まめやかに啓すれば、笑はせ給ひて、「さらばただ心に任す。我は、詠めとも言はじ」と宣はすれば、「いと心安くなり侍りぬ。今は、歌のこと思ひかけじ」など言ひてあるころ、庚申せさせ給ふとて、内の大臣殿、いみじう心まうけせさせ給へり。
(第九八段)
中納言参り給ひて、御扇奉らせ給ふに、「隆家こそ、いみじき骨は得て侍れ。それを貼らせて参らせむとするに、おぼろけの紙は、え貼るまじければ、求め侍るなり」と申し給ふ。「いかやうにかある」と問ひきこえさせ給へば、「すべていみじう侍り。『さらに、まだ見ぬ骨のさまなり』となむ、人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ」と、言高く宣へば、「さては、扇のにはあらで、海月のななり」と聞こゆれば、「これは隆家が言にしてむ」とて笑ひ給ふ。
かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つな落としそ」と言へば、いかがはせむ。
(第一〇〇段)
(淑景舎、東宮に) 御手水参る。かの御方のは、宣耀殿、貞観殿を通りて、童女二人、下仕へ四人して、持て参るめり。唐廂のこなたの廊にぞ、女房六人ばかり候ふ。狹しとて、かたへは御送りして皆帰りにけり。桜の汗衫、萌黄・紅梅などいみじう、汗衫長く引きて、取り次ぎ参らする、いとなまめき、をかし。織物の唐衣どもこぼれ出でて、相尹の馬の頭の女小将、北野宰相の女宰相の君などぞ、近うはある。をかしと見るほどに、こなたの御手水は、番の釆女の、青裾濃の裳、唐衣・裙帯・領布などして、面いと白くて、下仕へなど取り次ぎ参るほど、これはた公しう唐めきて、をかし。
御膳の折になりて、御髮上げ参りて、蔵人ども、御まかなひの髮上げて、参らするほどは、隔てたりつる御屏風も押し開けつれば、かいま見の人、隠れ蓑取られたる心地して、あかずわびしければ、御簾と几帳との中にて、柱の外よりぞ見奉る。衣の裾・裳などは、御簾の外に皆押し出だされたれば、殿、端の方より御覧じ出だして、「あれは誰そや、かの御簾の間より見ゆるは」と、とがめさせ給ふに、「少納言が、ものゆかしがりて侍るならむ」と申させ給へば、「あな恥づかし。かれは古き得意を。いとにくさげなる娘ども持たりともこそ見侍れ」など宣ふ御気色、いとしたり顔なり。
あなたにも御膳参る。「うらやましう、方々の皆参りぬめり。とく聞こしめして、翁・嫗に御おろしをだに賜へ」など、日一日、ただ猿楽言をのみし給ふほどに、大納言殿、三位の中将、松君率て参り給へり。殿、いつしかと抱き取り給ひて、膝に据ゑ奉り給へる、いとうつくし。狹き縁に、所狭き御装束の下襲引き散らされたり。大納言殿は、ものものしう清げに、中将殿は、いとらうらうじう、いづれもめでたきを見奉るに、殿をばさるものにて、上の御宿世こそ、いとめでたけれ。「御円座」など聞こえ給へど、「陣に着き侍るなり」とて、急ぎ立ち給ひぬ。
(第一〇五段)
見苦しきもの 衣の背縫ひ、片寄せて着たる。また、のけ頸したる。例ならぬ人の前に、子負ひて出で来たる。法師陰陽師の、紙冠して、祓へしたる。
色黒うにくげなる女の、鬘したると、髭がちに、かじけ、やせやせなる男と、夏、昼寝したるこそ、いと見苦しけれ。何の見る甲斐にて、さて臥いたるならむ。夜などは、容貌も見えず、また、皆おしなべて、さることとなりにたれば、我はにくげなりとて、起きゐるべきにもあらずかし。さて、早朝は疾く起きぬる、いと目やすしかし。夏、昼寝して起きたるは、よき人こそ、今少しをかしかなれ、えせ容貌は、つやめき、寝腫れて、ようせずは頬ゆがみもしぬべし。かたみにうち見交はしたらむほどの、生ける甲斐なさよ。
痩せ、色黒き人の、生絹の単衣着たる、いと見苦しかし。
(第一一一段)
常より異に聞こゆるもの 元三の車の音。また鶏の声。暁のしはぶき。ものの音はさらなり。
(第一一二段)
絵に描き劣りするもの なでしこ。菖蒲。桜。物語にめでたしといひたる男・女の容貌。
(第一一三段)
描きまさりするもの 松の木。秋の野。山里。山道。
(第一一六段)
(正月に寺に籠りたるは) 二月晦日、三月朔日ころ、花盛りに籠りたるも、をかし。清げなる若き男どもの、主と見ゆる二、三人、桜の襖・柳など、いとをかしうて、くくり上げたる指貫の裾も、あてやかにぞ見なさるる。つきづきしき男に、装束をかしうしたる餌袋抱かせて、小舎人童ども、紅梅・萌黄の狩衣、色々の衣、押し摺りもどろかしたる袴など着せたり。花など折らせて、侍めきて細やかなる者など具して、金鼓打つこそ、をかしけれ。さぞかしと見ゆる人もあれど、いかでかは知らむ。うち過ぎて去ぬるも、さうざうしければ、「気色を見せましものを」など言ふも、をかし。
かやうにて、寺にも籠り、すべて例ならぬ所に、ただ使ふ人の限りしてあるこそ、甲斐なうおぼゆれ。なほ同じほどにて、一つ心に、をかしきこともにくきことも、さまざまに言ひあはせつべき人、必ず一人二人、あまたも誘はまほし。そのある人の中にも、くちをしからぬもあれど、目馴れたるなるべし。男なども、さ思ふにこそあめれ、わざと尋ね呼び歩くは。
(第一一八段)
わびしげに見ゆるもの 六、七月の午、未の時ばかりに、汚げなる車にえせ牛かけて、揺るがし行く者。雨降らぬ日、張り筵したる車。いと寒き折、暑きほどなどに、下衆女のなり悪しきが、子負ひたる。老いたる乞食。小さき板屋の黒う汚げなるが、雨に濡れたる。また、雨いたう降りたるに、小さき馬に乗りて御前したる人。冬はされどよし。夏は袍、下襲も、一つにあひたり。
(第一二〇段)
(恥づかしきもの) 男は、うたて思ふさまならず、もどかしう心づきなきことなどありと見れど、さし向かひたる人を、すかし頼むるこそ、いと恥づかしけれ。まして、情けあり、好ましう人に知られたるなどは、愚かなりと思はすべうももてなさずかし。心のうちにのみならず。また皆、これがことはかれに言ひ、かれがことはこれに言ひ聞かすべかめるも、我がことをば知らで、かう語るは、なほこよなきなめりと、思ひやすらむ。いで、されば、少しも思ふ人に会へば、心はかなきなめりと見えて、いと恥づかしうもあらぬぞかし。いみじうあはれに心苦しう、見捨てがたきことなどを、いささか何とも思はぬも、いかなる心ぞとこそ、あさましけれ。さすがに人の上をもどき、ものをいとよく言ふさまよ。ことに頼もしき人なき宮仕へ人などを語らひて、ただならずなりぬるありさまを、清く知らでなどもあるは。
(第一二一段)
無徳なるもの 潮干の潟にをる大船。大きなる木の、風に吹き倒されて、根をささげて横たはれ伏せる。えせ者の従者勘へたる。人の妻などの、すずろなるもの怨じなどして隠れたらむを、必ず尋ね騒がむものぞと思ひたるに、さしもあらず、ねたげにもてなしたるに、さてもえ旅立ち居たらねば、心と出で来たる。
(第一二三段)
はしたなきもの 異人を呼ぶに、我ぞとて、さし出でたる。物など取らする折は、いとど。おのづから人の上などうち言ひそしりたるに、幼き子どもの聞き取りて、その人のあるに、言ひ出でたる。
あはれなることなど、人の言ひ出で、うち泣きなどするに、げにいとあはれなりなど聞きながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし。泣き顏作り、気色異になせど、いと甲斐なし。めでたきことを見聞くには、まづただ出で来にぞ出で来る。
(第一二六段)
九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の、今朝は止みて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、前栽の露はこぼるばかり濡れかかりたるも、いとをかし。透垣の羅紋、軒の上などにかいたる蜘蛛の巣のこぼれ残りたるに、雨のかかりたるが、白き玉を貫きたるやうなるこそ、いみじうあはれに、をかしけれ。
少し日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに、枝うち動きて、人も手触れぬに、ふと上様へ上がりたるも、いみじうをかし、と言ひたることどもの、人の心には、つゆをかしからじと思ふこそ、またをかしけれ。

(第一三一段)
頭の弁の、職に参り給ひて、物語などし給ひしに、夜いとう更けぬ。「明日、御物忌みなるに、籠るべければ、丑になりなばあしかりなむ」とて、参り給ひぬ。
早朝、蔵人所の紙屋紙引き重ねて、「今日は、残り多かる心地なむする。夜を通して昔物語も聞こえ明かさむとせしを、鶏の声に催されてなむ」と、いみじう言多く書き給へる、いとめでたし。御返りに、「いと夜深く侍りける鶏の声は、孟嘗君のにや」と聞こえたれば、立ち返り、「孟嘗君の鶏は、函谷関を開きて、三千の客わづかに去れり、とあれども、これは、逢坂の関なり」とあれば、
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「夜をこめて鶏の虚音ははかるともよに逢坂の関は許さじ |
心かしこき関守侍り」と、聞こゆ。また立ち返り、
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「逢坂は人越え易き関なれば鶏鳴かぬにも開けて待つとか」 |
とありし文どもを、初めのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて取り給ひてき。後々のは、御前に。
(第一三四段)
つれづれなるもの 所去りたる物忌み。馬下りぬ双六。除目に司得ぬ人の家。雨うち降りたるは、まいていみじうつれづれなり。
(第一三五段)
つれづれ慰むもの 碁。双六。物語。三つ、四つの児のものをかしう言ふ。また、いと小さき児の物語し、違へなどいふわざしたる。果物。男などの、うちさるがひ、ものよく言ふが来たるを、物忌みなれど、入れつかし。
(第一三八段)
(殿などのおはしまさで後) 例ならず、仰せ言などもなくて日ごろになれば、心細くてうちながむるほどに、長女、文を持て来たり。「御前より、宰相の君して、忍びて賜はせたりつる」と言ひて、ここにてさへ、ひき忍ぶるも、あまりなり。人伝ての仰せ書きにはあらぬなめり、と、胸つぶれて、疾く開けたれば、紙には、ものも書かせ給はず、山吹の花びらただ一重を包ませ給へり。それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日ごろの絶え間嘆かれつる、皆慰めてうれしきに、長女も、うちまもりて、「御前には、いかが、ものの折ごとにおぼし出できこえさせ給ふなるものを、誰も、あやしき御長居とこそ、侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」と言ひて、「ここなる所に、あからさまにまかりて参らむ」と言ひて去ぬる後、御返事書きて参らせむとするに、この歌の本、さらに忘れたり。「いとあやし。同じ古事といひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、言ひ出でられぬは、いかにぞや」など言ふを聞きて、小さき童の前に居たるが、「下行く水、とこそ申せ」と言ひたる。など、かく忘れつるならむ、これに教へらるるも、をかし。
御返り参らせて、少しほど経て参りたる、いかがと、例よりはつつましくて、御几帳にはた隠れて候ふを、「あれは今参りか」など、笑はせ給ひて、「にくき歌なれど、この折は、さも言ひつべかりけりとなむ思ふを、大方見つけでは、しばしもえこそ慰むまじけれ」など、宣はせて、変はりたる御気色もなし。
(第一四二段)
恐ろしげなるもの 橡のかさ。焼けたるところ。水蕗。菱。髪多かる男の、洗ひて干すほど。
(第一四四段)
いやしげなるもの 式部の丞の笏。黒き髪の筋わろき。布屏風の新しき。古り黒みたるは、さる言ふかひなき物にて、なかなか何とも見えず。新しう仕立てて、桜の花多く咲かせて、胡粉、朱砂など彩りたる絵ども描きたる。遣戸厨子。法師の太りたる。まことの出雲筵の畳。
(第一四五段)
胸つぶるるもの 競馬見る。元結縒る。親などの、心地あしとて、例ならぬ気色なる。まして、世の中など騒がしと聞こゆるころは、よろずのことおぼえず。また、もの言はぬ児の泣き入りて、乳も飮まず、乳母の抱くにも止まで、久しき。
例の所ならぬ所にて、ことにまたいちじるからぬ人の声聞きつけたるは道理、異人などの、その上など言ふにも、まづこそつぶるれ。いみじう憎き人の来たるにも、またつぶる。あやしくつぶれがちなるものは、胸こそあれ。昨夜来始めたる人の、今朝の文の遅きは、人のためにさへ、つぶる。
(第一四六段)
うつくしきもの 瓜に描きたる児の顏。雀の子の、鼠鳴きするに、踊り来る。二つ三つばかりなる児の、急ぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。

頭は尼そぎなる児の、目に髮の覆へるを、かきはやらで、うち傾きて、物など見たるも、うつくし。大きにはあらぬ殿上童の、装束きたてられて歩くも、うつくし。をかしげなる児の、あからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。
雛の調度。蓮の浮き葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。なにもなにも小さきものは、皆うつくし。
いみじう白く肥えたる児の二つばかりなるが、二藍の薄物など、衣長にて、襷結ひたるが、這ひ出でたるも、また、短きが袖がちなる着て歩くも、皆うつくし。八つ、九つ、十ばかりなどの男子の、声幼げにて書読みたる、いとうつくし。
鶏の雛の、足高に、白うをかしげに、衣短なるさまして、ひよひよとかしかましう鳴きて、人の後・前に立ちて歩くも、をかし。また、親の、ともに連れて立ちて走るも、皆うつくし。雁の子。瑠璃の壺。
(第一四七段)
人ばへするもの 異なることなき人の子の、さすがにかなしうし慣らはしたる。しはぶき。恥づかしき人にもの言はむとするにもまづ先に立つ。
あなたこなたに住む人の子の、四つ五つなるは、あやにくだちて物取り散らし、損ふを、引きはられ制せられて、心のままにもえあらぬが、親の来たるに所得て、「あれ見せよ。や、や、母」など引き揺るがすに、大人ともの言ふとて、ふとも聞き入れねば、手づから引き探し出でて、見騒ぐこそ、いと憎けれ。それを、「まな」とも取り隠さで、「さなせそ、損ふな」などばかり、うち笑みて言ふこそ、親も憎けれ。我はた、えはしたなうも言はで見るこそ、心もとなけれ。
(第一五〇段)
むつかしげなるもの 繍の裏。鼠の子の毛もまだ生ひぬを、巣の中より転ばし出でたる。裏まだ付けぬ裘の縫ひ目。猫の耳の中。ことに清げならぬ所の、暗き。
異なることなき人の、子などあまた持て扱ひたる。いと深うしも心ざしなき妻の、心地あしうして久しうなやみたるも、夫の心地はむつかしかるべし。
(第一六一段)
近うて遠きもの 宮のべの祭り。思はぬ同胞、親族の仲。鞍馬の九十九折といふ道。師走の晦日の日、正月の朔日の日のほど。
(第一六二段)
遠くて近きもの 極楽。舟の道。人の仲。
(第一七三段)
女の一人住む所は、いたくあばれて、築土なども全からず、池などある所も、水草ゐ、庭なども、蓬に茂りなどこそせねども、所々、砂の中より、青き草うち見え、寂しげなるこそ、あはれなれ。ものかしこげに、なだらかに修理して、門いたく固め、際々しきは、いとうたてこそおぼゆれ。
(第一七四段)
宮仕へ人の里なども、親ども二人あるは、いとよし。人繁く出で入り、奧の方にあまた声々さまざま聞こえ、馬の音などしていと騒がしきまであれど、とがもなし。されど、忍びても顕れても、おのづから、「出で給ひにけるを、え知らで」とも、また「いつか参り給ふ」など言ひに、さしのぞき来るもあり。心かけたる人はた、いかがは。門開けなどするを、うたて騒がしうおほやうげに、夜中までなど思ひたる気色、いと憎し。「大御門は、鎖しつや」など問ふなれば、「今。まだ人のおはすれば」など言ふ者の、なまふせがしげに思ひて答ふるにも、「人出で給ひなば疾く鎖せ。このころ、盗人いと多かなり。火危うし」など言ひたるが、いとむつかしう、うち聞く人だにあり、この人の供なる者どもは、わびぬにやあらむ、このかく今や出づると、絶えずさしのぞきて、気色見る者どもを、笑ふべかめり。真似うちするを聞かば、ましていかに厳しく言ひとがめむ。いと色に出でて言はぬも、思ふ心なき人は、必ず来などやはする。されど、すくよかなるは、「夜更けぬ。御門危ふかなり」など笑ひて、出でぬるもあり。まことに心ざし殊なる人は、「早」など、あまたたび遣らはるれど、なほ居明かせば、たびたび見歩くに、明けぬべき気色を、いと珍かに思ひて、「いみじう、御門を今宵らいさうと開け広げて」と聞こえごちて、あぢきなく、曉にぞ、鎖すなるは、いかがは憎きを。親添ひぬるはなほさぞある。まいて、まことのならぬは、いかに思ふらむとさへ、つつまし。兄の家なども、けにくきは、さぞあらむ。
(第一七九段)
宮に始めて参りたるころ、ものの恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて、三尺の御几帳の後に候ふに、絵など取り出でて見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじう、わりなし。「これは、とあり、かかり。それか、かれか」など、宣はす。高杯に参らせたる御殿油なれば、髮の筋なども、なかなか昼よりは顕証に見えて、まばゆけれど、念じて、見などす。いと冷たきころなれば、さし出でさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじう匂ひたる薄紅梅なるは、限りなくめでたしと、見知らぬ里人心地には、かかる人こそは世におはしましけれと、驚かるるまでぞ、目守り参らする。
曉には疾く下りなむと急がるる。「葛城の神も、しばし」など、仰せらるるを、いかでかは筋かひ御覧ぜられむとて、なほ臥したれば、御格子も参らず。女官ども参りて、「これ放たせ給へ」など言ふを聞きて、女房の放つを、「まな」など仰せらるれば、笑ひて帰りぬ。ものなど問はせ給ひ、宣はするに、久しうなりぬれば、「下りまほしうなりにたらむ。さらば、早。夜さりは疾く」と仰せらる。ゐざり隠るるや遅きと上げ散らしたるに、雪降りにけり。登花殿の御前は立蔀近くて狭し。雪いとをかし。
(第一八三段)
病は、胸。物の怪。脚の気。さては、ただそこはかとなくて、もの食はれぬ心地。
十八、九ばかりの人の、髪いとうるはしくて、丈ばかりに、裾いとふさやかなる、いとよう肥えて、いみじう色白う、顔愛敬づき、よしと見ゆるが、歯をいみじう病みて、額髪もしとどに泣き濡らし、乱れかかるも知らず、面もいと赤くて、おさへて居たるこそ、いとをかしけれ。
(第一八八段)
ふと心劣りとかするものは、男も女も、言葉の文字卑しう遣ひたるこそ、よろづのことよりまさりて、わろけれ。ただ文字一つに、あやしう、貴にも卑しうもなるは、いかなるにかあらむ。
さるは、かう思ふ人、殊に優れてもあらじかし。いづれをよしあしと知るにかは。されど、人をば知らじ、ただ、心地にさおぼゆるなり。
卑しきことも、わろきことも、さと知りながらことさらに言ひたるは、あしうもあらず。我がもてつけたるを、慎みなく言ひたるは、あさましきわざなり。
また、さもあるまじき老いたる人・男などの、わざと繕ひ、鄙びたるは、憎し。まさなきことも、あやしきことも、大人なるはまのもなく言ひたるを、若き人は、いみじうかたはらいたきことに消え入りたるこそ、さるべきことなれ。
(第一九〇段)
風は 嵐。三月ばかりの夕暮れにゆるく吹きたる雨風。
八、九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨の脚横さまに、騒がしう吹きたるに、夏通したる綿衣のかかりたるを、生絹の単衣重ねて着たるも、いとをかし。この生絹だに、いと所狭く暑かはしく、取り捨てまほしかりしに、いつのほどにかくなりぬるにかと思ふも、をかし。
暁に、格子・妻戸を押し開けたれば、嵐のさと顔にしみたるこそ、いみじくをかしけれ。
九月つごもり・十月のころ、空うち曇りて、風のいと騒がしく吹きて、黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。桜の葉・椋の葉こそ、いと疾くは落つれ。
十月ばかりに、木立多かる所の庭は、いとめでたし。
(第一九一段)
野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。立蔀、透垣などの乱れたるに、前栽ども、いと心苦しげなり。大きなる木どもも倒れ、枝など吹き折られたるが、萩・女郎花などの上に横ろ這ひ伏せる、いと思はずなり。格子の壺などに、木の葉を、ことさらにしたらむやうに、細々と吹き入れたるこそ、荒かりつる風の仕業とはおぼえね。
いと濃き衣の上曇りたるに、黄朽葉の織物、薄物などの小袿着て、まことしう清げなる人の、夜は風の騒ぎに、寝られざりければ久しう寝起きたるままに、母屋より少しゐざり出でたる、髪は風に吹きまよはされて、少しうちふくだみたるが、肩にかかれるほど、まことにめでたし。
ものあはれなる気色に見出だして、「むべ山風を」など言ひたるも、心あらむと見ゆるに、十七、八ばかりにやあらむ、小さうはあらねど、わざと大人とは見えぬが、生絹の単衣のいみじうほころび絶え、花もかへりぬれなどしたる、薄色の宿直物を着て、髪色に、細々とうるはしう、末も尾花のやうにて、丈ばかりなりければ、衣の裾にはづれて、袴のそばそばより見ゆるに、童女、若き人々の、根ごめに吹き折られたる、ここかしこに取り集め、起こし立てなどするを、うらやましげに押し張りて、簾に添ひたる後手も、をかし。
(第二〇九段)
五月ばかりなどに山里に歩く、いとをかし。草葉も水もいと青く見え渡りたるに、上はつれなくて、草生ひ茂りたるを、長々と縦さまに行けば、下はえならざりける水の、深くはあらねど、人などの歩むにはしり上がりたる、いとをかし。
左右にある、垣にあるものの枝などの、車の屋形などに差し入るを、急ぎてとらへて折らむとするほどに、ふと過ぎて外れたるこそ、いとくちをしけれ。
蓬の、車に押しひしがれたりけるが、輪の回りたるに、近ううちかかへたるも、をかし。
(第二一四段)
九月二十日余りのほど、初瀬に詣でて、いとはかなき家に泊まりたりしに、いと苦しくて、ただ寝に寝入りぬ。
夜更けて、月の窓より漏りたりしに、人の臥したりしどもが衣の上に、白うて映りなどしたりしこそ、いみじうあはれとおぼえしか。さやうなる折ぞ、人、歌詠むかし。
(第二一八段)
月のいと明かきに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ。
(第二一九段)
大きにてよきもの 家。餌袋。法師。果物。牛。松の木。硯の墨。男の目の細きは女びたり。また、金椀のやうならむも恐ろし。火桶。酸漿。山吹の花。桜の花びら。
(第二二〇段)
短くてありぬべきもの とみのもの縫ふ糸。下衆女の髪。人の女の声。灯台。
(第二四五段)
ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。
(第二四六段)
殊に人に知られぬもの 凶会日。人の女親の老いにたる。
(第二五二段)
世の中に、なほいと心憂きものは、人に憎まれむことこそあるべけれ。誰てふもの狂ひか、我、人にさ思はれむ、とは思はむ。されど、自然に、宮仕へ所にも、親・同胞の中にても、思はるる、思はれぬがあるぞ、いとわびしきや。
よき人の御ことは、さらなり、下衆などのほどにも、親などのかなしうする子は、目立て、耳立てられて、いたはしうこそおぼゆれ。見るかひあるは、道理、いかが思はざらむ、とおぼゆ。異なることなきは、また、これをかなしと思ふらむは、親なればぞかしと、あはれなり。
親にも、君にも、すべてうち語らふ人にも、人に思はれむばかり、めでたきことはあらじ。
(第二五五段)
人の上言ふを腹立つ人こそ、いとわりなけれ。いかでか言はではあらむ。我が身をば差し置きて、さばかりもどかしく言はまほしきものやはある。されど、けしからぬやうにもあり、また、おのづから聞きつけて、恨みもぞする、あいなし。また、思ひ放つまじきあたりは、いとほしなど思ひ解けば、念じて言はぬをや。さだになくは、うち出で、笑ひもしつべし。
(第二六一段)
(うれしきもの) 恥づかしき人の、歌の本末問ひたるに、ふとおぼえたる、我ながらうれし。常におぼえたることも、また人の問ふに、清う忘れてやみぬる折ぞ、多かる。
とみにて求むる物、見出でたる。
物合、何くれと挑むことに勝ちたる、いかでかはうれしからざらむ。また、我はなど思ひてしたり顔なる人、はかり得たる。女どちよりも、男は、まさりてうれし。これが答は必ずせむと思ふらむと、常に心遣ひせらるるも、をかしきに、いとつれなく、何とも思ひたらぬさまにて、たゆめ過ぐすも、またをかし。
憎き者の、あしき目見るも、罪や得らむと思ひながら、またうれし。
ものの折に、衣打たせにやりて、いかならむと思ふに、清らにて得たる。刺櫛磨らせたるに、をかしげなるも、またうれし。またも多かるものを。
日ごろ月ごろ、しるきことありて悩みわたるが、怠りぬるも、うれし。思ふ人の上は、我が身よりもまさりて、うれし。
御前に、人々、所もなく居たるに、今のぼりたるは、少し遠き柱もとなどに居たるを、とく御覧じつけて、「こち」と、仰せらるれば、道あけて、いと近う召し入れられたるこそ、うれしけれ。
(第二八四段)
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子参りて、炭櫃に火おこして、物語などして集り候ふに、「少納言よ、香爐峯の雪、いかならむ」と、仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせ給ふ。
人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この宮の人には、さべきなめり」と言ふ。
(あとがき)
この草子、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のために便なき言ひ過ぐしもしつべき所々もあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心より外にこそ漏り出でにけれ。
宮の御前に、内の大臣の奉り給へりけるを、「これに何を書かまし。上の御前には、『史記』といふ書をなむ書かせ給へる」など、宣はせしを、「枕にこそは侍らめ」と申ししかば、「さは、得てよ。」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよや何やと、尽きせず多かる紙を書き尽くさむとせしに、いとものおぼえぬことぞ多かるや。
大方、これは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべきなほ選り出でて、歌などをも、木・草・鳥・虫をも、言ひ出だしたらばこそ、思ふほどよりはわろし、心見えなりと、そしられめ、ただ心一つにおのづから思ふことを、戯れに書き付けたれば、物に立ちまじり、人なみなみなるべき耳をも聞くべきものかはと、思ひしに、「恥づかしき」なんどもぞ、見る人はし給ふなれば、いとあやしうぞあるや。げに、そも道理、人の憎むをよしと言ひ、ほむるをもあしと言ふ人は、心のほどこそ、推し量らるれ。ただ人に見えけむぞ、ねたき。
左中将、まだ伊勢の守と聞こえし時、里におはしたりしに、端の方なりし畳を差し出でし物は、この草子、載りて出でにけり。まどひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ、返りたりし。それより歩き初めたるなめりとぞ、本に。
デイジー図書奥付
2023年
発行 |
特定非営利活動法人 |
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サイエンス・アクセシビリティ・ネット |
表紙絵・挿絵 |
市原勝義 |
参考図書 |
『枕草子』角川ソフィア文庫 |
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『枕草子』岩波文庫 |

この図書は日本財団の助成によって作製しました。